音楽を続けたいけれど
どこか 何かが違う気がしていた
本当にやりたい音楽を 見つけたかった
そんな想いを胸に
私は オーボエで大学に進学しました
クラシックは やりたくない
だけど
オーボエは 続けたい
家から近くて
共学で
音楽以外を学んでいる学生の方が多くて
どこか 音大とは違う空気をまとったその大学は──
アメリカン・スタイルでもいいと言ってくれたこともあり
私にとって とてもありがたい存在でした
ここなら きっと
本当にやりたい音楽が 見つかる──
そう思って 入学したのです
──
入学してすぐ なぜか
先輩たちに
「癒し系オーボエ吹き」
と呼ばれたことがありました
なんでだろう? と
“癒し”という言葉が なぜか心に残ったのを覚えています
──
そのころ もうひとつ
忘れられないできごとがありました
好奇心から 大学の先生が作った
ジャーマン・スタイルのリードを吹いてみた瞬間──
やっぱり私は アメリカン・スタイルがいい
そう はっきり思いました
そしてアメリカン・スタイルに戻したところ──
「アメリカンに戻すなら破門だ」
と言われたのです
当時の環境を思えば
それも 自然な反応だったのかもしれません
私自身も
「アメリカンは いじめられる」と
事前に聞いていたことがあったので──
なるほど きたか──
と思ったのを 覚えています
──
すぐに高校から習っていた先生に相談すると
「世界の一流奏者たちは スタイルにこだわらない
会ってきなさい
それから 学校では作曲を勉強しなさい」
と言われました
その言葉に背中を押されて
世界の一流オーボエ奏者たちのマスタークラスなどを受けるようになりました
──
そこで出会った音は
今まで聴いたことのない キラキラしたオーボエの音
目の前に 新しい世界が
パッと 開けていくようでした
そして 1年生の終わりには
専攻を辞めることを決めました
──オーボエを 手放したわけではありません
自分のスタイルを 大切にしたかったのです
作曲の先生も 私の事情を汲み取ってくださり──
「オーボエで吹きたいと思う曲を書きなさい」
──そう言って 受け入れてくれました
──
そんな1年生のころ
もうひとつ 印象的なできごとがありました
音楽専攻生だけが参加できる
サントリーホールで「第九」を歌う機会
あの有名なフレーズが始まると同時に
私は 真っ白な世界に包まれていて──
そこには ただ「歌」だけがありました
すべてがあたたかくて
ただ 安心してそこにいられる──
そんな不思議な感覚
あの瞬間
「ここで音楽をしたい」と思ったのです
──
2年生になり 作曲の課題でモチーフを作るとき
和音の響きを 体の中に入れて
オーボエを吹いてみると──
ブルースのような音楽が 湧き出てきて
それが とても面白くて 楽しかった
特に 海に行ったあとは
音楽が 泉のようにあふれてきて──
理由もわからず ただおもしろかった

けれど──
ブルースのような音が湧き出てきていたのに
左手は「ドソミソ」しか弾けず
だんだん 自分の音楽が
ピアノの弾ける範囲に合わせるようになってしまって──
先生にも「モーツァルトみたい」と言われていたのですが
なぜか先生に相談もできず
また 行き止まりを感じてしまったのです
──
ちょうどそのころ──
アメリカの伝説的オーボエ奏者が
来日し
公開レッスンが開かれました
たった10人だけが選ばれていたそのレッスンに
なぜか 私の名前も入っていたのです
──
先生とは 私の家で飼い始めた犬の話ばかりしていたからか
犬の名前「タケ」をすっかり覚えていて
母にも “ママ” と呼びながら
「タケが〜」と 話していたそうです
写真を撮るときには
私の肩をしっかり掴んでいて
離してくれず
なぜか私は みんなの記念写真の中心に写っていました
最後のパーティーでのお別れのときに
「孫娘」と言って
そっと抱きしめて
頬にキスをしてくれました
──
いつもビリー・ホリデーを聴きながら
リードを削っていたというその先生と
音楽のことを語り合ったわけではないけれど
何かが 音を通さずとも
響き合っていたのかもしれません
それが ただの偶然だったのか
ある種の即興だったのかは わかりません
でも 今でもふと
あの時間を思い出すとき
あたたかいものが
胸の奥に そっと響いています
